体育会学生の就職・就活・転職支援なら株式会社スポキャリ

 

COLUMN
コラム

スポキャリインタビュー vol.8 挫折からの復活。 周囲の恩情に感謝 清水章夫さん (プロ野球 元日本ハム、オリックス投手/前アルビレックス新潟ベースボールクラブ監督)

2021/03/15

挫折からの復活。周囲の恩情に感謝

清水章夫さん
(プロ野球 元日本ハム、オリックス投手/前アルビレックス新潟ベースボールクラブ監督)

[聞き手]
岡 泰秀
(株)スポキャリ取締役会長。昭和50年(1975年)生まれ。京都成章高-大阪体育大。99年4月(株)大阪近鉄バファローズに入社。監督付き広報、2軍チームマネジャーほか、球団社長室に所属し、肖像権委員会、広報業務などに携わる。近鉄球団の整理を担当しながら、オリックスバファローズや東北楽天イーグルスの設立に携わり退社。09年にスポーツマネジメント会社「スポーツカンパニー」設立。上原浩治(元巨人)、建山義紀(元日本ハム)らの日本側の代理人を務め、清水直行(元ロッテ)らの事業コンサルを務めた。
04年よりプロスポーツ昭和50年会を立ち上げ、幹事長を務める。05年より大阪体育大学硬式野球部の助監督を務めた(~17年)。16年からは阪神大学野球連盟の常任理事。
20年より(株)スポキャリ取締役会長

体育会ならではの強い絆 周りにずっと支えられてきた

1997年のドラフト会議で6球団の争奪戦。最終的には日本ハムを逆指名して1位でプロ入りを果たした清水章夫投手。それだけ注目を集める存在だったにもかかわらず、異色の経歴を持っている。実は高校時代は軟式野球部に属し、硬式野球とは無縁。近畿大学入学後、硬式に転じた。それでいて、ドラフト1位指名まで上り詰めたのだから、異例中の異例といっていい。
13年間のプロ生活を終えると、競技自転車の営業に転じ、さらには2019年には独立リーグ、アルビレックス新潟の監督に就任し、昨年まで2年間を務めた。
異色の経歴には、周囲の支えが大きな力になったと清水氏は言う。その異色の経歴をたどっていくと、就活に臨む学生たちへの道しるべの一つとなるはず。あきらめることはない。焦らず頑張れば道は開ける。

 

★俗にいう“ライパチ”、野球エリートではなかった

野球をはじめたのは周りの友達がやっていたから、という清水さん。小学生の頃は「チームで下から数えたほうが早いくらい下手で、ポジションも外野手で打順も7、8番が普通でした」。

中学に入っても突然うまくなるわけはなく、高校に入ってからも、野球を続ける気持ちはなかった。
「野球をする気はなかったんだけれど、中学からの友人に誘われて、硬式ではなく軟式野球部を見に行って、ここなら、なんとか続けられるかなと、軽い気持ちで軟式野球部に入った」

体の成長もあり、技術的にも成長する中で、清水氏は投手に。すると才能が開花して、絶対的なエースに成長。大阪大会で2年連続優勝するなど、軟式野球では注目される存在になった。

同校の硬式野球部は大阪府内では中堅どころ。府大会ベスト8レベルが常だった。
軟式野球ながら、力をつけてきたことを自覚していた清水氏は、同校の硬式野球部の投手と自らを比較、「そこそこできるのではないか」と、大学に進んで、硬式野球に転向してやってみたいという気持ちが芽生えることになる。

しかしながら、当時は軟式野球部の選手が硬式野球に転じることはなかなかスムーズに進まない。野球部のセレクションに挑戦しようと思っても、その“資格”として”硬式野球部に所属”という項目が存在した大学も多かった。

やっと見つけた”軟式野球は不可”と書かれていない大学を中部地方の大学で見つけ、申込みしたものの、直前になって『常識的に軟式野球部出身者の応募を予測しなかっただけで、実は硬式野球部出身者に限っています』と門を閉ざされる始末。

途方に暮れた清水氏は、高校の同級生の父親のツテで、近大野球部に話をしてもらい、いわば〝正式ルート“ではなく、短期大学部への入学を果たし、そこから4年生への転部という、かつて江川卓投手(元法大―巨人)が、慶大を受験し不合格、そして法大の短大から4年制のへの転籍という”ウルトラC”を使い話題になった古い話があるが、同様の手法で近大への入学を果たし、野球部に所属した。

かといって、すぐに清水氏に活躍の場が与えられたわけではない。
「成長痛、というんですか。体が大きくなるにつれ、体のあちこちに痛みが出て、十分にプレーすることができませんでした」

下級生の頃は、思うようにプレーできないこともあり、「やめたい」と思うこともあった。そんな清水氏を支えてくれたのが、チームメイトたちだった。

「やめるなよ、頑張ろうぜ。ずっと励ましてくれた。それがあって続けることができた」と清水氏はいまでも、当時の同級生たちに感謝しているという。

もちろん、自分自身が施されてきた激励は、立場を変えて、やめたいという選手に宿舎を訪れ、必死に「やめるな」と訴えることがあったという。

「だから、自分たちの同期の絆は強い」と清水氏は胸を張る。

毎年、同期の選手たちと同期会が行われてきたのだが、「それが楽しみで仕方がない」と清水氏。「あんなに野球を続けるのが嫌で仕方がなかったのに」と笑う。

成長痛も治まり、3年生以降の活躍はあらためて言うまでもないだろう。同級生の二岡智宏(元巨人ほか)らと、全日本大学野球選手権をはじめ、当時の大学野球部が手にすることのできるタイトルをすべて獲得した。清水氏自身も最優秀選手賞、最優秀投手賞など、タイトルを総なめし、その実績をひっさげ、プロの道に進んだのだ。

★プロ入り後も続いた苦難

それだけ注目される存在でプロに進んだのに、いや、注目される存在だったこそかもしれないが、清水氏のプロ入り後は順風満帆とはいかなかった。

「プロのスピードや技術に圧倒されたのも事実。また、ドラ1というプレッシャーもあったのか、思うように投げられなくなり、腰、ヒジ、肩と痛くなって、全然、結果を残せなかった」

2年間はなにも成績を残せていない。

「このままでは、いつクビといわれても仕方がない」と覚悟をしていた2年目に、清水氏に転機が訪れる。

「米国への留学を言われたんです」
日本ハムは、メジャーリーグのヤンキースと提携を結んでおり、コーチや選手をヤンキースのマイナーチームに送り、プレーさせる制度があった。

そこに捕手の実松(日本ハム―巨人)とともに送り込まれた清水氏だが、「ドラ1のプレッシャーがなくなったのがよかったのか、ある日突然、体のあちこちで感じていた痛みがすっと消えた。

実松が”清水さん、投げられるじゃないですか⁈”と驚いていた」。

実は実松以上に驚いたのは清水氏自身だったはずだ。

苦しめられてきた痛みが消え、3年目の清水氏は一軍で活躍。ドラ1の面目躍如の活躍を見せたのだ。
その後も日本ハムからトレードでオリックスに移ったが、先発、そして中継ぎに転じて活躍し、2010年、現役を退いた。

「高校時代、大学進学、そしてプロに入ってからも、僕は周りの人も恵まれてきた。

いつもだれかが助けてくれた。体育会に所属している学生は、野球部でなくても、同じような経験をしている人が多いのではないか。周りを見れば、自分を支えてくれる人はいっぱいいる。

少しばかりうまくいかないことがあっても落ち込むことなく、一生懸命やっていれば、周りの人は見ています。きっと支えてくれる」

今、清水氏はそう力説する。これは体育会の学生たちへのエールである。

アルビレックス新潟の監督を退いた清水氏には、かつて、プロ引退後に働いた競技用自転車の世界への”復帰”を果たしつつ、野球界でもアマチュア球界から指導者として声がかかっているそうだ。

「一生懸命やって入れて、見てくれている人はいる、というのは先にも言いましたが、僕自身、今の自分に声をかけてくれるのは、それを強く感じています」

清水氏は、自分を応援してくれる人たちの期待に応えるために、今も成長を続けている。

◆就活のためのキーワード

1・周囲の支えに感謝して活動する
2・一生懸命にやっていれば人は見ている
3・体育会だからこそチームメイトの支えが強い

CONTACT

お問い合わせ

些細なことでもお気軽にお問合せください。

SNS

@spokyari2020

企業様は
こちらから

就活必勝
ツールは
こちらから